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小津安二郎論-「日本的なもの」とその普遍性について-

作家名
長光康次
小津安二郎論-「日本的なもの」とその普遍性について-
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■世界的名監督「小津安二郎」の魅力。単なるオリエンタリズムを超えた「日本的なもの」についての論考。「東京大学 美学藝術学研究」所収

 小津安二郎(1903〜63)は存命中から「日本的な」監督である、と言われ続けてきた。外国人におよばず日本人までもが小津を日本的な監督と考え、あまりに日本的でありすぎるという理由で同時代の溝口健二、黒澤明といった監督の作品に比べてヴェネツィアなどの国際的なコンクールに一度も出品されることはなかったし、映画の先進国であるヨーロッパでの商業上映とその評価(とそれに伴う国内での再評価)は殆どが小津の死後おこなわれた。
 しかし、その多くの論考は小津をいかに「日本的な」監督に押し込めるかということに精力を傾けている。小津の作品の独自性を旧来から「日本的なもの」とされてきた概念、つまり「もののあわれ」や「甘え」や「禅」、そして「無常」などと結び付けようとするのがそうした論考の主なものである。
 単なるオリエンタリズムだけで世界からこれだけ多くの支持を得られるのだろうか、という一点の疑問と違和感からこの論考は始まっている。
 彼の代表作の一つである『麦秋』を例に取り、蓮實重彦やドナルド・リチーといった過去の代表的な小津論を批判しつつ論考を組み立てていく。
非常に捕らえづらい小津の魅力に美学の観点からアプローチした一遍。
東京大学 美学藝術学研究 17/18(1998年)所収。

投稿日
発売日
ページ数
28
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